日本帰国
ペルーから日本へ帰って来たのは、年明け早々の冬の時期だった。
日本での祖父との二人暮らしが始まる。
二人暮らしと言っても祖父は、パチンコに行くか自分の部屋でジグソーパズルをしているかだったので実質的には一人暮らしと変わらなかった。
エホバの証人をやめて高校もやめて、ペルーでの半軟禁生活も終わり日本に帰って来て、うるさいことを言う母もいない。
今までにない自由な状況だったが僕は特にこれといって何もせず、今までと同じようにテレビを見て、ゲームをして本屋で立ち読みをするような日々を過ごしていた。
映画やお笑いに関係した仕事がしたい、といって高校を辞めたが、実際には高校を辞めるための正当性を増すための言い訳と言う部分もあったので、すぐに行動を起こすほどのやる気はなかった。
エホバの証人と高校を辞めて以降、ほとんど誰ともあっておらず、この時期に会っているのは祖父と伯母と兄だけだった。
何もせず、ただ無為にゲームを続けて数週間経った頃に
母がペルーから帰って来た。
ひきこもり
母が帰って来てからも、同じような生活は続いた。
母とはあまり会話せず、部屋に引きこもってゲーム、テレビ、映画、本に逃げていた。
この頃の母は以前と違って余り煩くはなかった。
母のコントロール下から抜け出た僕と、どう接していいか分からなかったのだろう。
結局、この時期は全部で四ヶ月ほど、引きこもってゲームを続けた。
ペルーにいた時期も、引きこもりのようなものだったから、高二の2学期と3学期を引きこもりに費やしたようなものだ。
高校を辞めて自分で生き抜くセンスを磨きたいと思っていたが、実際にはすぐに動き出すことができず、長い停滞期間を過ごしていた。
だがその停滞期間は、大きな視点で見ると調整期間であり、大きくジャンプするための力を蓄えていたのだと言うことが、振り返って見てみるとよくわかる。
僕は抑圧されて育ったため、人と接することが苦手でメディアへの現実逃避的な行動をしていたのだが、実際にはメディアは僕にとって唯一の外界との接触点であり、生きると言うことの見本をメディアから学んでいた。
この時期に、家族以外の人と友好的なコミュニケーションをとったのは、ペルーで同年代の子達と遊んだ数日間だけだった。
エホバの証人の反逆児仲間との友情も、エホバの証人を辞めた時点で途絶えていた。
その友情は、エホバの証人の親という共通の敵を持つもの同士の戦場での友情で、戦場から離脱してからは僕たちの友情は瞬く間に消えてしまった。
後に聞いた話では、他のエホバの証人の子供たちも僕の後を追って辞めたらしい。
僕はこういった先陣を切る様な役目をすることが度々あると、ずいぶん後になってから気づいた。
外界へ出る準備
母はアルバイト情報の新聞広告を、僕の目に見えるところに置いたりして、働け働けとプレッシャーをかけてくる。
僕は、そのプレッシャーに対応できるほどの心の準備ができておらず、無視しながらゲームを続けていた。
困り果てた母は姉に相談したことで、ペルーにいる姉から直接国際電話がかかってきた。
姉に対して僕の心は比較的開いていたので、僕に対して意見を伝えるにはいい方法だったと思う。
姉の説得により、引きこもりをずっと続けるわけにはいかないと言う当たり前の事実に気づき、何かの仕事をしようと決意する。
そうはいっても高校を中退した17歳の僕に大した仕事はなく、何をするか考えあぐねていた。
とりあえずの目標は、実家から出て大阪の都心部で一人暮らしをしたいと言う希望があったが、17歳では一人でアパートを借りることもできず実家で停滞していた。
一人暮らしの資金を貯めるためにも何かの仕事は必須だったが、引きこもりグセのついた僕には、なかなかのチャレンジだった。
そこで見つけたのが『ピザの配達』の仕事。
原付に乗って配達している分には、人と会話しなくて済む。
これなら自分にも気兼ねなくできると思った。
これなら自分にも気兼ねなくできると思った。
原付の免許を持っていなかったので、教習所に行って免許を取る。
1万円ほど払って1日で取得できた。
配達のバイトをする準備は整った。
近所のピザ屋での配達のバイトで、そこでは昔に姉がバイトしていたこともあり、他の仕事に比べて比較的ハードルは低かった。
こうして人生の停滞期間を脱出することができた。
つづく。。。
次回は、人生初の普通っぽい暮らしの話1です。
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