姉の結婚式と移住
僕がエホバの証人と高校を辞めたのと同じ時期に、姉がペルー人の男性と結婚してペルーに移住する計画が進んでいた。
10月頭にペルーに行き、旦那の地元でペルー式の結婚式を挙げる。
そして、それに合わせて家族みんなでペルーに行こうという、家族史上最大の大規模なイベントだ。
当時は、今ほど飛行機が安くなく、往復で20万円以上したように思う。
家にこもって、うだつの上がらない日々を過ごしていた僕は、厄介払いのような感じでペルーに行くことを勧められた。
僕は別にペルーに行きたかった訳ではないが、特にやることも無く腐っていただけなので、反論せずにペルーに行くことにした。
エホバの証人と高校をやめるという一歩を踏み出せたが、社会に出るという次の一歩を踏み出せずにいた。
僕が母から距離を取るのは、お互いにとっていい決断だったと思う。
後々になって姉から聞いた話だが、母が僕をペルーに送り出したのには実は裏の意図があったらしい。
それは、エホバの証人としては結婚するまでは、男女二人きりで過ごしてはいけないという規則がある。
それは絶対的な規則で、破ればエホバの証人から追放されることになる。
だが、状況的に姉は一人でペルーに行かなくてはならず、結婚前の旦那と時間を過ごすことになれば、婚前交渉(結婚前のセックス)をしてしまう恐れがある。
それが起こらないようにと母は、僕を監視役として送り出したというのだ。
当時の僕はもちろん、そんなこととはつゆ知らず、姉には相当煙たがられていたことだろう。
ペルーへ向かう準備
姉がペルーへ向かった一ヶ月後に、僕もペルーへ向かうことになった。
どんな生活が待っているのか想像もつかなかったが、高校も宗教もやめて宙ぶらりんの僕には、なんだって一緒だ。
こう言う状況って普通だと不安になったり、あれこれ準備したりするんだろうけど、僕は自由にはなったが、心は相変わらず半死の状態から発達していなかったので、ある意味安定していた。
三ヶ月往復のチケットを買ったが、帰国日に帰る予定でもなく、帰ってから何をすると言うアイデアも無かった。
よく言えば、今を生きている。
悪く言えば何も考えていない。
実際には、何も考えることができなかったと言うのが正確だと思う。
ペルーに行く準備といっても、本を数冊とノートを一冊買っただけだった。
宗教と学校に行く以外の生活をしたことがないので、どんな準備をすればいいかも全くわからない。
バックパックに着替えと本とノートをつめた。
そもそも貧乏なので大したものも持っていないし、何かを買うと言う考えも思い浮かばなかった。
水で洗い流さなくていいシャンプーを買ったくらいか。
姉や母は携帯用ゲーム機を持っていっても、ずっとゲームしてるだけだから置いていけと言うので、納得して置いていった。
向こうに着いたら、どんな生活をするかと言うアイデアもなく、とりあえずただ向かう。
今と同じ無為の生活が、向こうでも続くくらいに考えていた。
出発
ペルーに向かうのは僕一人。
家族や親戚が見送りに来てくれたが、空港に入ると自分一人だけ。
家族から離れるのも初めてだし、外国へ行くのも初めてだし、飛行機も初めてだった。
ここでも感情が死んでいるのが役に立ったのかして、恐れることなく淡々とできることをこなして行く。
最初の飛行機は、関西国際空港からロサンジェルスへ向かう。
姉の旦那は外国人だし、他にも外国人は見たことがあったが、外国人に囲まれる環境は生まれて初めて。
出国の手続きも、トランジットも何もかも分からないが、ロサンジェルスの空港に着いて係員らしき人にチケットを見せると、身振り手振りでどこに行くか教えてくれた。
とりあえず本当に何も分からないので、何かあるたびに係員を見つけて、チケットを全部見せることで解決した。
ロサンジェルスから飛行機を乗り換えて、マイアミへ行き、また飛行機を乗り換えてペルーのリマへ。
乗り換えるたびに、飛行機のサイズが小さくなって行くのが少し不安。
2ヶ月前に家を追い出される覚悟をしたところなので、飛行機が落ちて死ぬ可能性があることにも恐れはなかった。
飛行機に何度も乗っている人にとっては馬鹿らしい話だが、初めて飛行機に乗る時というのは死ぬ覚悟をするものである。
空港では、途中で迷ったりしつつも大きな問題はなく、無事にたどり着く事が出来た。
つづく。。。
次回はペルーでの生活の話1(自叙伝019)です。
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