中学生生活
中学校へ入るとすぐに、小学校からの同級生のほとんどは、なんらかの運動クラブへと入った。
僕はエホバの証人の活動に注力しなければいけないので、クラブ活動へ参加しないようにと促されていた。
エホバの証人としてクラブ活動を禁止されていたわけでは無いのだが、しない方が好ましいと言う空気。
自分はクラブ活動に参加できないのではなくて、クラブ活動に興味がないのだ
と思い込んでやり過ごしていた。
この思考回路はいつものパターン、非常に不健康な考え方だが、向き合いきれない重たい日々から目をそらさせてくれた。
できない活動は結構多くて、
校歌を歌ってはいけないとか(エホバ神以外を賛美してはいけない)、
運動会で騎馬戦ができなかったり(暴力行為をしない)、
運動会で日本の伝統的な踊りに参加できない(神道を賛美しない)、
お誕生日会に参加できない(エホバ神以外を喜ばせない)、
クリスマス会に参加できない、初詣やバレンタインやひな祭りなども。
書いていったらきりがないほど、世間一般的な活動から遠ざけられていた。
この頃の僕の望みは、普通の家庭に生まれて、普通の生活をしてみたいって事。
クラブ活動に参加したくない(できない)僕は帰宅部と呼ばれる直帰組だった。
家に帰って時間のある時は、友達とゲームしたり、万引きツアーに出かけたり、ゲームセンターにいったり。
なんとも不健康な精神と生活だったと思う。
思春期
思春期に少年から大人に変わる。
ただでさえ、ピラミッド社会の底辺を這いずって、歪みまくっているところに、思春期というさらなるツイストが加わる。
母子家庭で育つ男の子は誰もが似たような経験をするのかも知れないが、僕は母から溺愛されていた。
その愛は母から子への愛なのだが、母は潜在意識的には男女愛のエネルギーを放出していたように思う。
溺愛や過保護は、思春期に入った少年にとって、もっとも居心地の悪いもの。
僕はさらに心の壁を高くして、内側に篭っていった。
通常の思春期の少年は異性に興味を持って、その思いを表現したりするのだろうが、エホバの証人だった僕は異性と関わることを禁止されており、クラスの女の子と話すことも儘ならなかった。
母は、離婚のトラウマやエホバの証人の潔癖感からか、僕が女性に興味があるようなそぶりを見せると、露骨な嫌味を言ってきたので、家庭内では無性を演じなければいけなかった。
人間としての自然な流れが阻害され抑圧されることで、歪みはもっと内在化し深まっていった。
おじいちゃん
中学2年生の時に母の父、僕のおじいちゃんがうちに引っ越してきた。
歳も歳だし、祖父を一人で生活させておくと何かあった時に大変だからという理由。
これを機に、同じ地区の部屋数の多い団地に引っ越した。
それでもうちは貧しいままで、祖父は4畳半の部屋、二十歳前後の姉と思春期の僕は6畳の部屋を二人で共有、6畳の部屋は居間兼母の部屋、そして6畳のキッチン兼ダイニング。
今の僕の感覚からすると、人間生活を送るにはあまりにも狭く感じるのだが、当時の僕は全く気にならなかった。
僕にとっては生活とはこう言うもので、妥当なスペースを持っていると思っていた。
同級生が皆同じような家庭環境だったのも幸いした。
祖父は若い時に外に女を作って家を飛び出していて、母たちは非常に苦労した子供時代を送ったらしい。
そして母が若い時に母の母は交通事故で亡くなり、母の父から援助を受けられなかった母は母の父に対して感情的なわだかまりを持ち続けたようだ。
そんな祖父は父と同じくギャンブルが好きで、ひたすらパチンコに通い続けた。
ドヤ街出身の彼らにとっては、ギャンブルは生活の一部で、もっとも一般的な趣味。
祖父は月に一度もらう年金を1週間から2週間でパチンコに消費し、次の年金までの残りの日々を部屋でパズルを組み立てて過ごすと言う日々を送っていた。
たまにパチンコで勝つと、お小遣いをくれるのだが、母は家にお金を入れずに孫に小遣いをあげているといって怒っていた。
ロクでもない感じなのだが、それでも表面的には家族関係はうまくいっていた。
それはおそらく2大勢力である父と母が対立せずに、父母の役を担った母が絶対権力者として君臨していたから成り立っていたんだと思う。
祖父も姉も僕も、母には逆らわない事で平和が成り立っていた。
唯一喧嘩が起こるのは僕と姉との関係だが、姉も成人し、僕も思春期になる頃には自然と喧嘩もなくなっていた。
つづく。。。
次回は歪みが顕著に現れてくる中学生時代の話4です。